その当たり前さえ分からないから同じこと繰り返して、いつもいつも誰かに責任転嫁しているんでしょ。

気付けない人は何言っても最後までそのまま。

何のために、とか損得勘定もしくは、〜してあげてるから〜されるのは当然だなんて思考をしている方には、失礼だけど上手くいかないのは自明の理です。

一歩前へ

元プロ格闘家の須藤元気さんが格闘技を引退した後の道を悩み、模索していたところ
たまたま入った公衆トイレの便器の上に書いてあった「一歩前へ」の字を見て新たな世界へ勇気を振り絞って飛び出して行ったっていうエピソードを何年か前にテレビで見たのを思い出した。
番組の中では結構失笑ぎみに捉えられていた。当時の自分も、個人宛のメッセージが公衆トイレごときに書いてあるものか?と思ってしまっていた。
でも今なら分かる。この世界には自分たちを導いてくれるたくさんの言葉があって、受け取るか否かは自分次第であるということを。
 さらに言葉と心とは密接な関係にあると、よく聞く。言葉が先なのか、心が先なのか、ちょうど「鶏と卵の関係」と似ている。いずれにしても、優しい言葉、人を励ます言葉を多く発している人は、他でもない自分自身がその言葉をいちばん多く聞いている。逆に人をけなし、悪口を多く行っている人は、それをいつも聞いている自分自身が一番影響を受けているということだ。
言葉というものはとても重いものである。
それなのに自分たちは言葉を粗末に扱いすぎる傾向がある。それは、不平不満や愚痴という形で出てくる。
「あいつがだらしないから、こっちまでやる気がなくなった」
こんな愚痴を聞かされる周囲はたまったものではないだろうか。こんなことをずっと言っていれば、周囲の人たちはそっぽを向いて相手にしなくなりやがて孤立する。言葉が自分の首を絞めてしまう。
ここで見逃してはいけないのが、愚痴の多い人には胃痛持ちや偏頭痛持ちが多いことである。暗い言葉を吐いていると心が暗くなるばかりでなく体まで病んでくる。
それほど言葉の影響力は大きいのだと思う。
 

反対に元気で生き生きとしている人は、言葉も明るい。挨拶の声からして明るいし話していて妙にこちらまで心地よくなってくる。
愚痴や不満をこぼしている人がいれば、「そんなこといつまでも気にするなよ。くよくよしたって自分の得にならないよ。」とあっさり否す。毎朝目が覚めると、「今日もいい天気だ。一日頑張るぞ!」と必ず声に出す人がいる。言葉に出すことによってその日一日気持ち良く過ごせるらしい。前日に悩みがあっても綺麗に消えてしまうそうだ。
 つづくつづき
 また、仕事上の悩みで夜眠れなくなると、「くよくよ考えたって、悩みは解決しない。明日のことは明日考えよう」と声に出して言い、頭を切り換えて、その日あった一番楽しいことを思い浮かべていると、いつの間にか寝ているという。
言葉の力をよく知り、それを実際に生活に取り入れて効果的に活用しているのである。

言葉というものは、心から意識を引き出すだけでなく人生まで動かす。といっても過言ではないだろう。
 マイナスの言葉はマイナスの意識を生み、マイナスの人生を招く。前向きの言葉は心も積極的にして、人生そのものも明るくする。
相手に対して優しい言葉をかければ、相手ばかりではなく自分の心も和む。相手を元気づける言葉をかければ、自分の心も元気になる。
もちろん、自分自身にも励ましの言葉をかければ、自然に自分の心が活気づく。
つねに優しい言葉、明るい言葉、励ましの言葉をかけるように心がけて、充実した人生をつかもうと思う。

 「形から入って心に至る」、「心は形を求め、形は心を整える」とよく言うが、いつもいつも前向きな言葉を心がけていればその言葉に影響を受けて、前向きな考えに感化されることはあると思う。
 逆に、ぶつぶつ不平不満の言葉を言ったり、他人を批判したりが多いと、それを一番耳にしているのはこの自分自身。影響を受けないはずはない。心しなければと思う。


就職氷河期だとか、不況だとか、南海トラフ地震が何年以内に来るだとか、増税だとかで暗い話題の多い日本だけど、言葉の力でまだまだこれから明るくすることはできると思う。愚痴をこぼすのが癖になっていませんか?言葉を粗末にしていませんか?
こんな世の中だからこそほんの小さな言葉でも、まずは受け取ろうとしてみてその言葉に感化されることによって自らも前向きな言葉の発信源となることができるのだと思う。
これを読んで、変わろうと思ってくれる人がいれば嬉しい。

善と偽善。

2011年の東日本大震災後のボランティア、募金活動に対して、「偽善者が。」と罵る人をたくさん見てきました。

「善人でありたい。」
というのは、他人から善人であると思われたいか、自分を善人たる善人であると思い込みたいかのいずれかであり、善行をすることで自己満足をする限り、純粋な他者への善ではなく、自己愛から生まれた善であることは自明の理です。
おおかたの人間にとって、無論、私にとっても、偽善を完全に取り払って「善」を行うことは不可能に近いのかもしれません。

この考えから言えば、「これは善いことをした。」と思って何かをした時点で「偽善者」になり得るのでしょうか。
どんなに自己犠牲の精神の強い人格者であれ、世間の目から見れば、「善行=偽善者」ということになってしまうかもしれません。

しかし、ことごとく前述したように「善行=偽善」であったとしても、最近のネット等でよく見る
「あいつは偽善者だ。俺は偽善者になりたくないから何もしないし傍若無人に振る舞う。」
これは欺瞞に満ちた幼稚ないわば「屁理屈」にすぎないのです。
私は無神論者ではありますが、ここでかのイエスキリストの言葉を借りれば、

 「 見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
  だからあなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。(マタイによる福音書6章1-4節)」

一見、キリストは偽善を嫌っているように思える。
しかし、偽善を嫌う人というものは、往々にして「偽善者は嫌いだから、自分は善行なんてしない。」という理論が罷り通るとばかり思いこみ、高みの見物を決め込んでいるのです。(いや、むしろ下かもしれません。)

「善行をしないことの言い訳」として善行を偽善と決め付け、偽善者を引き合いとしているのです。

私は、困っている人に手を差し伸べる行為は日常生活をより健やかに送るために最重要なことであると考えています。
むしろ、「偽善者になりたくないから」と言ってそのような善行から逃げる人間に対して、「どうぞおやりなさい、隠れたところで。そうすればあなたも偽善者にならずに済みますよ」と勧めているのです。

要するに私が言いたいことは、「どんなことであれ、それが偽善だとしても、募金をしたり、ボランティア活動をすることは被災者にとってマイナスなことではなくむしろプラスであり、実際に被災された方々はボランティアの方々に対し、感謝している。と聞きました。


人間のやることはことごとく偽善ですが、それでも、他者のためにわたしたちは何かをすることができます。動機が偽善でも、効果は同じなのです。
  「偽善者になりたくない」という言葉を隠れ蓑にして怠慢を決め込んでいる人は、「偽善者にさえなれない」のです。
どこかのボランティア・サイトでは
「やらぬ善より、やる偽善」という言葉が流行していたそうです。まさに「やる偽善」のほうが、人の役に立つのです。



最後に

「情けは人の為ならず」という言葉がありますが、善行をすればいつかは巡り巡って善いことは返ってくるものです。
初めはそういった動機からでも構いません。
どんなに小さなことからでも、「これをすれば誰かが喜ぶ。」そう思えるように、よりよい生活を共に送りましょう。