善と偽善。

2011年の東日本大震災後のボランティア、募金活動に対して、「偽善者が。」と罵る人をたくさん見てきました。

「善人でありたい。」
というのは、他人から善人であると思われたいか、自分を善人たる善人であると思い込みたいかのいずれかであり、善行をすることで自己満足をする限り、純粋な他者への善ではなく、自己愛から生まれた善であることは自明の理です。
おおかたの人間にとって、無論、私にとっても、偽善を完全に取り払って「善」を行うことは不可能に近いのかもしれません。

この考えから言えば、「これは善いことをした。」と思って何かをした時点で「偽善者」になり得るのでしょうか。
どんなに自己犠牲の精神の強い人格者であれ、世間の目から見れば、「善行=偽善者」ということになってしまうかもしれません。

しかし、ことごとく前述したように「善行=偽善」であったとしても、最近のネット等でよく見る
「あいつは偽善者だ。俺は偽善者になりたくないから何もしないし傍若無人に振る舞う。」
これは欺瞞に満ちた幼稚ないわば「屁理屈」にすぎないのです。
私は無神論者ではありますが、ここでかのイエスキリストの言葉を借りれば、

 「 見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
  だからあなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。(マタイによる福音書6章1-4節)」

一見、キリストは偽善を嫌っているように思える。
しかし、偽善を嫌う人というものは、往々にして「偽善者は嫌いだから、自分は善行なんてしない。」という理論が罷り通るとばかり思いこみ、高みの見物を決め込んでいるのです。(いや、むしろ下かもしれません。)

「善行をしないことの言い訳」として善行を偽善と決め付け、偽善者を引き合いとしているのです。

私は、困っている人に手を差し伸べる行為は日常生活をより健やかに送るために最重要なことであると考えています。
むしろ、「偽善者になりたくないから」と言ってそのような善行から逃げる人間に対して、「どうぞおやりなさい、隠れたところで。そうすればあなたも偽善者にならずに済みますよ」と勧めているのです。

要するに私が言いたいことは、「どんなことであれ、それが偽善だとしても、募金をしたり、ボランティア活動をすることは被災者にとってマイナスなことではなくむしろプラスであり、実際に被災された方々はボランティアの方々に対し、感謝している。と聞きました。


人間のやることはことごとく偽善ですが、それでも、他者のためにわたしたちは何かをすることができます。動機が偽善でも、効果は同じなのです。
  「偽善者になりたくない」という言葉を隠れ蓑にして怠慢を決め込んでいる人は、「偽善者にさえなれない」のです。
どこかのボランティア・サイトでは
「やらぬ善より、やる偽善」という言葉が流行していたそうです。まさに「やる偽善」のほうが、人の役に立つのです。



最後に

「情けは人の為ならず」という言葉がありますが、善行をすればいつかは巡り巡って善いことは返ってくるものです。
初めはそういった動機からでも構いません。
どんなに小さなことからでも、「これをすれば誰かが喜ぶ。」そう思えるように、よりよい生活を共に送りましょう。